1969年
火の鳥 パヒュームパウダー(プレスド)
105歳を超えてもなお現役の美術家として活躍を続けた、篠田桃紅(しのだ・とうこう)先生。5歳から父の手ほどきで筆を持ち、独学で書を極めました。戦後、文字を解体し、墨で抽象を描き始め、1956年より、ニューヨークを拠点にボストン、シカゴ、パリ、シンシナティなどで個展を開催。58年に帰国してからは、壁画や壁書、レリーフといった建築に関わる仕事や、東京・芝にある増上寺大本堂の襖絵などの大作の一方で、リトグラフや装丁、題字、随筆を手掛けるなど、活動は多岐にわたりました。1950年代の激しい筆致はやがて叙情性をたたえ、80年代から90年代にかけては、線はより洗練された間を構成していきました。
その新進気鋭の書家と評された頃の桃紅先生が1969年に手掛けたのは、カネボウのフレグランス「火の鳥」と「森の精」のラベルやパッケージに表記する品名デザインでした。
その頃、一流の国産香水を世の中に発表することをめざしたカネボウは、ある一人の開発者にその企画を託しました。職人肌のその開発者は熟考の末、お客さまの好みに合わせて選べるようにブランド構成を2種と定めました。そのひとつは、ストラビンスキー作曲のバレエ組曲「火の鳥」から命名。やさしさと情熱、そしてメルヘンに満ちた神秘的なムードを香りと容器で醸し出しました。もう一方は、「森の精」と名付け、清らかな森の精たちが奏でるやさしいメロディや美しい歌声が聞こえてくるようなファンタジックなムードを演出しました。そして、その製品の情緒性を表現する品名の書も一流のものでなければならないというこだわりを持ち、開発者自ら当時日本を代表する女流書家として活躍されていた篠田桃紅先生にお願いにあがったのです。一流の製品を作ろうとする開発者の情熱が桃紅先生の心を動かしたのは言うまでもありません。
桃紅先生の手により芸術の域にまで高められた製品は、香水の本場であるヨーロッパにも輸出され、その香りとパッケージデザインが高く評価されました。それは、カネボウの開発者と篠田桃紅先生の感性が響きあった瞬間だったのかもしれません。
文字をこえて─桃紅の歩み
岐阜現代美術館 シニア・キュレーター宮崎香里
岐阜現代美術館は、篠田桃紅作品収蔵数世界一を誇り、その数は800点を超えています。今回、特別に、篠田桃紅作品研究の第一人者である学芸員の宮崎香里さんから、桃紅先生の多様な創作活動についてのお話をご寄稿いただきました。ぜひ、ご一読ください。
火の鳥
香水(コンセントレート)
火の鳥
パヒュームコロン 80ml
火の鳥
容器文字(拡大)
火の鳥
パヒュームコロン 120ml
火の鳥
パヒュームコロンパッケージ
火の鳥
パッケージ文字(拡大)
火の鳥・森の精
香水
火の鳥・森の精
香水(エアゾール)
森の精
香水(エアゾール)拡大
森の精
パヒュームコロン
森の精
パヒュームパウダー(プレスド)
森の精
容器文字(拡大)
1936年
事業によるサステナビリティへの貢献
~化粧品事業創成の思い~
1938年
化粧品とシルクの出会い
~カネボウ化粧品のモノづくり~
1956年
第一次南極観測隊の携行品
~隊員の皆さんのお肌を守る化粧~
1960年
機能性ファンデーションの開発
~歌舞伎界のスーパースターの熱意に応えて~
1962年
ビーチハウスで美容アドバイス
~東洋のマイアミで~
1964年
カネボウ香水 コロネーションベル
~戴冠式の鐘~
1968年
ソワンエステティック国産第1号機の開発
~エステティックの国内普及をめざして~
1969年
芸術と化粧品の融合
~新進気鋭の女流書家とのコラボ~
1970年
絵本画家 いわさきちひろの愛用品
~カネボウ ソワドレーヌ リップスティック ユリ~
1976年
人の成長を思う
~カネボウ化粧品中央教育センター~
1977年〜
日本の化粧文化の醸成
~シーズンキャンペーン~
1979年
ブランドプロモーションとパーパス・ドリブン・ブランディング
~女性を応援する取り組み~
1991年
LOHASなブランド
~カネボウ EC~