第13回・1938年
化粧品とシルクの出会い
~カネボウ化粧品のモノづくり~

当時の主力事業に関係深い織物の柄を焼き付けたビンの後継種

鐘紡銀座サービス店で売上歩合制の外売員として働いていた丸岡文平は、サボン・ド・ソワ(注)の販売で抜群の成績を上げていました。これが当時の社長津田信吾の目に止まり、社員になるよう勧められ、1938年、丸岡は鐘紡に入社しました。その際、津田が丸岡に指示したことは、「輸入品に劣らぬ一流の化粧品をつくるべし」ということでした。

化粧品製造を任命された丸岡は、化粧品製造に精通した業界の技術者たちを日替わりで講師に招き、製造技術の猛勉強に取り掛かりました。また、在学中に英会話大会で日本一になった者を社員に採用し、英語で書かれた原書からの化粧品情報の収集を加速しました。同時に、化粧品容器のデザイン研究も進めました。これも「化粧品容器のデザインは美しくあらねばならない」という津田社長の厳命を受けてのことでした。元々アイデアマンだった丸岡は、歌舞伎座に勤めていた際に習得した木型づくりの技を生かして、木型で化粧品容器の模型をつくり、社長に提案。そのデザインは社長に絶賛され、次々と凝ったデザインの試作品を生み出していきました。当時の主力事業に関係深い織物の柄を焼き付けたビンなども、この時に試作されました。

一方同年、29歳の若さで京都・山科理化学研究所長に任命された中濱敏雄(後、京都府立大学5代学長)は、当時手掛けていた絹紡績における精錬法の研究のかたわら、生糸に含まれるたんぱく質が肌に様々な効用を与えることを発見し、これを化粧品製造に応用することを社長の津田に提案しました。津田はその提案を採用し、中濱に「化粧品をつくらせようと思っている男がいるから、その男を君のところへ行かせる。研究しあってくれ。」と指示。中濱の研究所に向かわされたその男こそ、丸岡文平でした。これ以降、丸岡と中濱は肝胆相照らす仲となり、津田の言う「一流の化粧品」づくりに協力しあうことになりました。

丸岡と中濱の惜しみない努力により、品質もデザインも「輸入品に劣らぬ一流の化粧品」をめざした製品は、輸入品と同等かそれ以上の価格が付けられ、鐘紡サービス店専売商品として呱々の声を上げました。そして、その高級感は世間をあっと驚かせました。また、京都での産業展でこれを展示したところ、ご行幸された皇后陛下からその化粧品の美しさにお褒めの言葉をいただき、同種の品物を献上するという名誉にもあずかりました。その後戦時下には事業の中断を余儀なくされましたが、戦後すぐに、美しいデザインの化粧品を次々と発表し、多くの女性たちに夢を与えたのもまた、丸岡らの手によるものでした。

丸岡文平と中濱敏雄との出会い。それは、新規事業の「化粧品」と主力事業の「シルク」との運命的な出会いでもあったのです。感触や容器デザインにこだわった、「お客さまの五感に響くモノづくり」への姿勢とシルクに端を発したさまざまな成分研究はこれを源流としてカネボウ化粧品の中で脈々と引き継がれていくことになりました。

参考文献
鐘紡百年史、丸岡文平手記

化粧品創成期のデザインの流れをくんだ化粧品と鐘紡サービス店