第4回「日本の化粧文化の醸成」特別寄稿

第一次日焼けブームの到来

国立歴史民俗博物館 准教授青木隆浩

Blan-Tan-Lu(1970夏・カネボウキャンペーンポスター) 撮影:篠山紀信

戦時・戦後の混乱から化粧品業界が復興したのは1950年代以降である。その当時はすでに欧米流のアイメイクが紹介されていたが、クリームと白粉による和風の薄化粧が基本であり、1960年代半ばまでのモデルの多くは、日本人の映画女優であった。
ところが、1960年代半ばになるとアメリカから日焼けとともに本格的な欧米流のメイク法が持ち込まれた。日焼けはレジャーを楽しめる上流階級の証としてそれ以前からアメリカで流行しており、メイクはそのアメリカ人の顔に少しでも近づくための手段であった。この時の日焼けブームは第一次ブームというべきもので、強さと豊かさの象徴であったアメリカン・スタイルを基調として1966年から1973年まで続いた。

翌1974年は第一次オイルショックの影響で化粧品出荷額が全国的に大きく落ち込んだが、1976年にはカネボウのキャンペーン「黒い瞳はお好き?F. サガン」などをきっかけに日本の美を見直すメイクのあり方が注目され、翌1977年にその雰囲気を維持したまま第二次日焼けブームが到来して、1980年代中頃まで続いた。

日焼けの第一次ブームと第二次ブームは、目標とする美の基準が異なっている。メイク法をみても、ファンデーションの機能と頬紅や口紅の華やかな色に重点を置いた第二次ブームと比べて、第一次ブームはサンオイルで日焼けした肌と、ラインやシャドウをはっきりと描いた目元が特徴的である。
カネボウは、このような欧米人風のメイクを流行として取り入れながらも、「違い」や「変身」といった言葉で独自性を示そうとした。それは、1966年の「Variant make-up(ヴァリアント・メイク・アップ)」や1970年の「metamoru-make(メタモル・メイク)」、「Blan-Tan-Lu(ブラン・タン・ルー)」といったシーズン・キャンペーンで顕著にみられる。

1960年代後半以降に日焼けと欧米風メイクが流行したとはいっても、和風の白を基調とした化粧法に慣れ親しんだ日本女性が、一斉に小麦色の肌を求めたわけではない。流行を意識しながらも,白い肌を保ちつつ他人と違うメイクをしたい女性は少なからず存在していた。そのような選択自由を前提にしていたのが、ヴァリアント(違い)やメタモル(変身)、ブラン・タン(白と日焼け)という言葉であった。そして、これらの言葉は、「ステージカラー」という個人の肌色の好みや照明による色の変化に着目した主力のファンデーションを基軸にしていた。メイクをステージ=舞台によって変える。それは、現代的なメイクがもともとハリウッド映画やロシアのバレエ団から発展したこと、日本の伝統的な化粧法が歌舞伎役者や芸妓から発信されてきたこと、その中間に1950年代の日本映画を隆盛させた女優の活躍があったことを踏まえていたのかもしれない。
カネボウの場合は、そのステージを毎年オーストラリア、メキシコの遺跡、中世ヨーロッパなどそれぞれ大きく変えていった。そして、1970年前後になると、それぞれのステージは詩的な叙述によって構成され、緩やかにつながれていった。
この詩的な表現は、高度成長期後半の大衆消費社会の仕組みと関わっている。大量生産・大量消費といえば消費者が他人と同じものを次々に購入するイメージがあるが、実際には個々人の好みがあった。この個人差は、1970年代前半に相次いで創刊したファッション雑誌において、「自分探し」という言葉で説明された。これは、個人を主体とした詩的世界に通じており、カネボウでは1971年夏の「Live in Summer」や同年秋の「Live Roman」、1972年春の「Talk Roman」といったキャンペーンに顕著である。そして、この詩的世界は、大衆の流行と個人の好みに根差す漠然とした憧れを結び付ける役割を果たした。
1973年秋以降のオイルショックによって、翌年には第一次日焼けブームが沈静化する。そして、1977年からは第二次日焼けブームとともに、和の美に注目する時代が到来するが、そこには欧米人への憧れから自分探しに至る過程で生じた、欧米人風の日本流メイクともいうべく第一次日焼けブームでのおしゃれの楽しみ方が介在していたといってよいだろう。
(©2019/青木隆浩)

※本画像は平成31年3月6日に著作権法第67条2第1項の規定に基づく申請を行い、同項の適用を受けて掲載しています。

第4回1977年~

日本の化粧文化の醸成
~シーズンキャンペーン~