歴史コラム

「絵本画家 いわさきちひろの愛用品」
特別寄稿

都とちひろ

ちひろ美術館・東京 主任学芸員 上島史子

画像:いわさきちひろの愛用品 花柄とレース・リボンがあしらわれた洋服

撮影 石内都 <1974.chihiro #9> 2019年 ©Ishiuchi Miyako

いわさきちひろは、生涯「子ども」を描き続けた画家でした。その絵は、絵本や教科書などの子どもの本を中心に広がり、没後45年を経た今も、多くの人たちに親しまれています。
ちひろの生誕100年にあたる昨年、東京と安曇野のふたつのちひろ美術館では、1年を通じて現在活躍中のさまざまな分野の作家と「Life」をテーマにコラボレートする展覧会を企画しました。そのなかで、写真家・石内都の<ひろしま>シリーズと、ちひろが被爆した子どもたちの手記に絵を描いた『わたしがちいさかったときに』を展示する展覧会「ひろしま」が、安曇野ちひろ美術館で開催されました。当初、石内はちひろについて「やさしい色彩でかわいらしい絵を描く絵本作家」という印象しかもたなかったといいますが、ちひろの人生を知るにつれて、自分の母親・藤倉都との重なりに気づいていきました。
いわさきちひろは1918年、藤倉都は1916年の生まれです。大正生まれで2歳しか年の違わないふたりは、15年に及ぶ長い戦争のなかで娘時代を過ごしました。ふたりの人生をみていくと、旧満州(中国東北部)大連で最初の結婚をしたことや、手に職を持ち経済的に自立していたこと、7歳あまり年下の夫と再婚したこと、母となっても仕事を続けたことなど、驚くほど符合しています。
石内は写真を始めた28歳のときから、母の旧姓名である「石内都」を作家名として名乗ってきました。生前は母のことをあまり理解できていなかったといいますが、2000年に母を亡くし、その遺品の撮影を始めたことが、母との関係を結び直すきっかけとなったといいます。今年再びちひろ美術館・東京でちひろとコラボレートする展覧会を開催するにあたり、新たにいわさきちひろの遺品を撮影し、母の傷跡や遺品を撮影したシリーズ<Mother’s>とともに展示することが、石内自身から提案されました。
2019年1月、冬期休館中の安曇野ちひろ美術館の館内で、石内はカメラを手に、冬の陽の光を追いかけながら、身軽にちひろの遺品の撮影を行いました。若いころに手づくりしたワンピース、銀座の洋装店で仕立てたオーダーメードのスーツ、新宿のデパートで買った靴や帽子、人目に触れたことのない毛玉のセーター、入院中に着ていたネグリジェ……。ささやかなものであっても、石内の写真を通してみる品々は、ちひろが生きた時間をいきいきと物語っています。普段は化粧をほとんどしなかったというちひろが、1本だけ遺した口紅も、このとき撮影されました。
母・藤倉都をひとりの女として見つめた<Mother’s>と、絵本画家として知られるちひろをひとりの女として見つめた新作<1974. chihiro>。ふたつのシリーズを同時に見ることで、ふたりの個性や、撮影した石内都との距離感が際立ってみえてきます。両シリーズを展示するにあたり、石内は、母の過去の記録を改めてたどり、ふたりが生きた時代背景も明らかにしていきました。親の反対を押し切って18歳で自動車運転免許を取得し、バスやタクシー、トラックなどあらゆる車を運転してきた藤倉都は、強い意志を持つ女性でした。やさしく、かわいいと言われるちひろの絵の奥にも、戦後の混乱期に画家として強く生きた女性の人生があります。
石内都によって発見されたふたりの女「都とちひろ」。ふたりの人生は、日本の戦前・戦中・戦後の時代にリアリティを与え、母、女、仕事といった、今につながるさまざまな問いを語りかけてきます。

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